「や、······やった、か?」
ぜぇぜぇと肩で息をしながら、頬を流れる汗を拭って竜虎は辺りを見回す。
静寂を取り戻したのを確認し、ようやくほっと息を付いたその時。陥没したままのその大地から、ぼこぼこと連続して土が盛り上がるような奇妙な音が鳴り響いた。
次々に現れる無数の手は、まるで地面いっぱいに咲いた曼珠沙華のように赤い月に向かって蠢きながらどんどん伸びていく。
その数は、もはや数えきれない。
「嘘だろ······あれが地面から全部出てきたら、俺たちだけでは本当にどうにもならないぞ、」
目の前の悍ましい光景に全身から力が抜けてしまったのか、がくんと膝から崩れ落ちる。そんな竜虎の右腕を掴んで、無明が立たせようと引っ張った。
「大丈夫? ヘタってる場合じゃないよ」
「····わかってる!」
這い出てこようとしている殭屍の群れだが完全に姿を現すまでには、まだ時間がかかりそうだ。
(なにか、原因となるものがあるはず、)
無明は竜虎の腕を放すと、もう一度笛を口元に運んだ。
あの荒々しい音色とは真逆の、柔らかい優しい音色が奏でられる。同時にふわりと無明の身体が宙に浮き、殭屍の群れの中心へと昇っていく。
高い位置から見下ろし、笛を吹き続けながら眼を凝らす。笛の音に合わせて、ぼんやりと赤い文字で描かれた広範囲の陣が、赤黒い光を湛えて薄っすらと浮かび上がったのだ。
(こんな陣、見たことがない。陰の気が強くて禍々しい······これって、強い陰を招く陣なんじゃ····)
この陣が下にある限り、この地に眠る死体が無限に湧いて出てくる。これでは助けを待つどころか霊力が尽きて終わりだ。
「真下に大きな陣がある! これを破らないといつまでも湧いて出てきちゃうかも!」
声の方を見上げ、竜虎はくそっと膝に力を込めて立ち上がる。霊剣を握り直し、落ち着くために大きく息を吐いた。
冷静にならないと。
ここで自分たちがやられれば、この先にある都が殭屍で埋め尽くされてしまう。助けは望めない。離れることも赦されない。ならば。
「わかっている! 陣があるが術士がいないということは、どこかに媒介があるはず。それを無効化できれば、勝機はあるってことだろ!」
笛を奏でながら、その声に無明は小さく頷く。
(そのためには、この陣の形を把握しないと、)
宙に浮き続けるのはかなりの霊力が必要だった。今の状態ではあまり長くは持たないだろう。奴らを押さえつけながら媒介を探すが、今の自分には容易なことではなかった。
眼を閉じ、あの荒々しい音色を再び奏でる。土から這い出てこようとしている殭屍の群れは、またあの圧力で地面に戻される。
その強さに大地が震えて、地震でも起こっているかのように地響きが鳴る。
(これは······六角形の陣?)
先ほどよりもさらにくっきりと浮かび上がった六角形の赤い陣は、それぞれ線が重なる場所に黒い霧がかった部分が見えた。
(陣が下からもはっきり見える······よしっ)
まずは近い場所から取り掛かる。霊剣をしまい右手で印を結び、素早く片膝を付いて地面に強く両手を付く。途端に赤い陣に纏わりつく黒い霧が白い光に包まれて、すぅっと消えていった。
「よし、あと五つ!」
片手を付いて反動をつけ、勢いよく立ち上がる。上で鳴り響く笛と、下で蠢く殭屍の身体半分を交互に見ながら、次の場所へと駆ける。
あと四つ、三つ、二つ、と次々に媒体を無効化していく竜虎だったが、最後の一つに取り掛かろうとしたその時、笛の音が突然ふつりと切れた。見上げたその時、頭上の赤い大きな月に照らされ、ぐらりとその華奢な身体が傾ぐ姿が見えた。
黒い衣は月のせいか赤黒く染まっており、傾いだ身体が頭を下して、ゆっくりと無数の殭屍たちの待つ地面へと近づいていく。
まずい! と考えるより先に、再び自由を取り戻した殭屍の群れに向かって、地面を強く蹴ろうとしたその時————。
白い光を湛えた大きな陣が闇夜に咲き、この辺り一帯を照らすように展開された。
その瞬間、活発に動き出していた殭屍の群れが、再び強い霊力で圧し潰されると同時に、ぼろぼろと崩れて土に還っていく。降り注ぐ光は神々しく、まるで天女でも降りてきそうな光景だった。
突然の出来事に呆然として立ち尽くす竜虎だったが、次々に上がる獣のように耳障りな殭屍たちの悲鳴で、すぐさま現実に戻される。
「無明!」
辺りを見回しはっと何かを見つける。丁度陣を挟んで反対側。崩れていく殭屍の群れの先に、人影があった。
「無明、 無事かっ!?」
大声で叫ぶ。あの人影がそうに違いないと確信する。しかし眼が慣れてその姿が現れた時、竜虎は色んな意味で驚愕した。
そこには、薄い青色の衣を纏った青年に大事に抱きかかえられた無明の姿があった。
その薄青の衣が意味するのは、金虎の一族ではなく、碧水、白群の一族。そして竜虎はその人物を知っていた。
(········白笶公子?)
腰まである長い髪を、藍色の髪紐で高い位置で結んでいる背の高い細身の青年が、ゆっくりとこちらをふり向いた。
興味がないとでもいうように、無明を抱きかかえたまま、赤い陣を冷たい瞳で見下ろしている。
上空に展開されている白い陣は、今もなお殭屍たちを次々に塵にしていくが、いつまでも生まれ出るそれらに気付いたようだ。
「白笶公子、この赤い陣を無効化しない限りやつらは召喚され続ける。あとひとつで終わるので、それまでどうか力を貸して欲しい」
声の届く場所まで駆け寄って簡潔に話す。非常事態なので言いながら軽く拱手礼の仕草を見せ、相手は手が塞がっているため代わりに会釈で快諾の意を表す。
「········かまわない」
低い声が返ってくる。眉目秀麗な青年は口数が少なくあまり交流はなかったが、一応顔見知りではあった。毎年この時期にだけこの地に訪れる。まさかこんな所で出くわすとは、夢にも思わなかったが。
竜虎が最後の媒介を無効化し、赤い陣がゆっくりとあの禍々しい光を失っていく。同時に、宙に展開されていた白い陣が地面にどんどん近づいてきて、しまいにはすべてを地面に押し戻し、役目を終えたとばかりに消えてしまった。
✿〜読み方参照〜✿
殭屍(きょうし)、金虎(きんこ)、碧水(へきすい)、白群(びゃくぐん)
白笶(びゃくや)
竜虎はここに赴く前、白冰に頼まれていたことがあった。「この謀は、間違いなく烏哭の仕業だろう。都合がいいと言われたらそれまでだけど、君の力が必要だ。無数の傀儡を操るには必ず陣を用いる。私が媒介の大まかな位置を、妖者たちの行動から推測して割り出す。君には合図と共に動いて欲しい」 金虎の直系の力が役に立つなら、ここにいる意味もある。「白笶と君の義弟は宝玉の方へ行ってもらっている。あちらはあちらで頑張ってもらっているけど、心配はいらない」 あのふたりの心配など無用だろう。(俺などいなくとも、あいつは、) ふと弱気な感情が芽生えて、ぶんぶんと首を振る。違う。そうじゃない。『竜虎殿、聞こえるかい?』 そんなことを考えている内に、頭の中で白冰の声が響く。慌てて竜虎は我に返り、は、はい! と大きく返事をした。『ふふ。良い返事だね。わかったよ、陣の位置が』「どこですかっ!?」 慌てないで、と白冰は落ち着いた声音で囁く。まるで耳元で囁かれているかのように聞こえるその声は、竜虎を落ち着かせるには十分だった。『雪鈴、雪陽、君たちも一緒に行って欲しい。竜虎殿をしっかり援護するんだよ、』 この辺りの妖者の気配は消えていた。絶えず上からは浄化の雨、森や平地には道を惑わす霧、地面には雪の陣が張り巡らされていて隙が無い。この陣地には別の雪家の者を寄こすそうだ。三人は白冰の言う、陣のあるだろう場所へと全力で駆け抜ける。『皮肉にも、渓谷の東側、その陣は必ずそこにある。ただ、気を付けて。陣があるということは、近くに奴らがいる可能性も高い。私もすぐに向かう』 太陽が頭を出す場所。渓谷の東側。 太陽が昇るまで、あと、半刻ほど。 碧水の地に響く、無数の妖者たちの声。まるであの村の時のように、見えない敵と戦っているようだった。**** 森の中で足止めされている妖者たちの横をすり抜けて、三人はなんとか渓谷へと辿り着いた。薄っすらと空に色が浮かび始めていたが、まだ太陽が姿を見せるまでには時間がかかりそうだ。「あの赤い陣、晦冥の地で見たのと同じ、六角形の陣!」 赤い光を帯びた広範囲の陣からは、どんどん殭屍や妖鬼が出てくる。「雪鈴、あそこ、渓谷の崖の、」 いつもは抑揚のない雪陽の声が、少しだけ緊張しているようだった。その指し示す先を雪鈴と竜虎が見上げる。渓谷の崖の少し岩が
碧水の都から人が消えた。消えた、というのは間違いで、白群の一族による迅速な対応によって避難したというのが正解である。では大勢の民たちはどこへ行ったのか。 霊山の麓、白群の一族が住まう敷地内は、碧水の地の中でどこよりも安全な場所と言えよう。霊山の神聖な霊気と、邪悪な存在を決して寄せ付けない結界。守るべきはこの地の民であり、そのために術士たちはいる。「皆、混乱は承知の上で、今から話すことをしっかりと聞いて欲しい」 それは一刻半前に、白冰が避難させた民たちの前で口にした言葉だった。民たちは誰一人として文句を言うことはなく、宗主の代わりに目の前に立つ白冰に注目する。その声はどこまでも人を安心させるような不思議な魅力があり、同時に揺らぐことのない心強さも生まれる。「数えきれないほどの妖者がこの都へ向かっている。このような事態になったのは、我々の不徳の致すところ。言い訳をする資格もない。皆に不安を与えてしまったこと、本当に申し訳なく思う」 白冰は初めに深く頭を下げた。民たちは口々に、そんなことは絶対にありえない、頭を上げてください、と騒めく。「都も、皆も、我々がなんとしても守り切る。夜明けまで、東の渓谷に太陽が昇るまでのあと約|一刻半の間、どうか信じて待っていて欲しい」 狙われているのはこの都だけで、他の地からの報告はない。つまり、敵は一族と都のみを標的としているのだ。民たちは白冰の言葉に胸を打たれ、不安がないと言えば嘘になるが、なによりも自分たちの先導者を疑うことなどあり得なかった。白冰が守り切ると言っているのだから、それ以上心強いことはない。 そしてその言葉の通り、民はひとりとして犠牲になることはなかった。**** 夜明けまであと約一刻ほど。 竜虎は雪鈴たちと共に、無限に湧いてくる妖者たちを相手に奮闘していた。妖者は殭屍と妖鬼の群れで、いずれも傀儡だった。統率のとれた妖者たちは、明らかになにかを目的として動いているようにしか見えない。 こちらも白冰の指示の下、戦いの前に皆に配られた見たことのない術式の符によって、効率的に動けている。その符は不思議なことに、頭に直接白冰の声が響き、周りにはまったく聞こえない。『怪我を負ったものは無理をせず、結界の内側へ退くこと。我々の最終目的は、妖者の群れをすべて滅することではなく、夜が明けるまで時間を稼ぐこと。
「······これが、神子の真実、」 この国の希望であり絶対的な存在。それが書物の中の神子だった。この真実を知っている者は、いったいどれだけいるのだろうか。「それじゃあ十五年も前に、邪神の封印が解かれていたってこと?」 烏哭が動き出したのはあの奉納祭の前日だったと仮定して、それまでまったく気配すら見せなかったのには何か理由があるのだろうか。 見えない何かに踊らされているような、そんな気さえする。今、ここに自分がいることさえも、もしかしたら誰かの思惑なのかもしれない。そんな風に思ってしまうのは、ただの思い過ごしだろうか。 あの日。藍歌の身に何も起きていなければ、外のセカイなど知らないまま、あの邸の中で一生を過ごしていたはずなのだ。「話はここまで。続きはまた今度」「契約の書き換えはもうじき終わるだろう。ここに訪れた時から、すでに書き換えは始まっていた」 ちょっとまって! と無明は後ろを振り向く。白銀髪の仮面の少年、始まりの神子の姿がだんだんと薄くなっていた。まだ訊きたいことがたくさんあるのに、こんな中途半端なところで終わってしまうなど、頭の中が追い付かない。「あのね、ひとつだけお願いがあるんだ」 え? と今度は前にいる自分そっくりな神子が言葉を紡ぐ。そこには悲し気な、けれども何かを決心したかのような表情が浮かんでいた。 神子をよく見てみれば、紅鏡を出る時に自分がしていた髪形によく似た髪形をしており、編み込まれている赤い髪紐もそっくりだった。「もし、君の傍に······こんな感じの、無愛想で無表情で無口なひとがいたなら」 神子は自分の顔を使って、言葉の通りにくるくると表情を変えて見せる。それはものすごくわかりやすく、無明は呆然とそれを見つめていた。「彼に永遠の輪廻を与えた時に私が口にした制約は、"自害すること"、以外はぜんぶ嘘だって教えてあげてくれるかな?」「は? え? どういう、意味?」「いつか生まれるだろう君に嫉妬して、私以外の誰かを慕うのが嫌だったなんて······ホント、私って馬鹿だよね。同じ存在なのに、」 とても愛しいものを想うような、そんな瞳で笑って神子は言う。それが誰に対してのものなのか無明はなんとなくわかってしまった。「彼の時間を縛ってしまったこと後悔してるんだ。だから伝えて欲しい。あの時の私はもういない。君は、君の守
「私たちはこれから一方的に話をすると思う。君の質問には答えられない。なぜなら私たちは、ただの記憶の欠片でしかないのだから」 無明は言葉を失う。 あの時、狼煙が少しも迷うことなく間違いないと言った意味が、今更わかってしまった。だってこんなにも自分とそっくりなのだから。「私たちの前に君がいるということは、また繰り返されてしまったということだね。すべての記憶を消去して、真っ白な神子がこの世に生まれ落ちた。つまり君は、色んな意味で始まりの神子ということになる」「今までの神子とは違い、記憶を受け継いではいないし、生まれた環境によって性格も違うかもしれない。けれどもその魂は同一。四神との契約も可能。そしてその体質も同じもの」 前後で交互に会話が行われる。どちらも同じ声だが、前の方の神子は明るく楽しげな声音で、後ろの始まりの神子の方はどこか静かで落ち着いた印象があった。「国ができる時、神は神子の身体を使って四神と黄龍を生み出した。それはのちに土地を守護する聖獣となり、その地で一番霊力の強い者にそれぞれの血を飲ませたことで、今の五大一族が各地を統べることになる。直系だけが特殊な力を持つのはその名残とも言える」「陰と陽は隣り合わせ。神はもちろん光と闇を創った。晦冥の地を統べていたのは、闇神。黒曜という名の神だった」 晦冥を統べていたということは、烏哭の宗主は人ではなく黒曜という名の神だったということだろうか。「この身体は魂を宿して生まれたその時から、特殊な体質になる。神と名の付く存在のみが善でも悪でも子を宿せる。孕ませるにはその霊気を注ぐ必要があり、女でも男でも例外はない。善神であれば神子の眷属が生まれ、邪神であれば闇の化身が生まれる」「かつて始まりの神子であった私は、彼の、黒曜の傍にいることを望んだ。故にこの身と魂をふたつに分け、もうひとつの魂が神子として永遠に転生し、この地の穢れを浄化することになったのだ」 どういうことだろう? と無明は始まりの神子の言葉に眉を寄せる。しかしその答えはすぐに神子たちから語られる。「黒曜は本来、穢れをその身に移すのが役目だった。しかしこの地は延々と穢れを生み続けた。やがて、彼の中で溜まった穢れから生み出された邪神が彼を蝕んでいき、邪神は時折彼に成り代わって私に闇の化身を生ませた。それがのちに烏哭の四天となったのだ」「黒曜
その中は真っ暗闇だった。 どれだけ歩いてもなにも変わらず、やはり自分には契約などできるわけがないのだと思ってしまう。しかしこの暗闇は不思議で、自分の姿だけははっきりと見えるのだ。だからこの空間は本物ではなく、創られたものなのだと妙に納得してしまう。「捜すにしても······どこをどう捜したらいいんだろう?」 ひとり言になるとわかっていても、不安を消すために口に出してみる。目印などあるわけもなく、とりあえず前に進んで行く。「······あれは、」 またしばらく歩き続けていた時、ある変化が訪れる。白い光を湛えた鳥が小さな翼を羽ばたかせて飛んでいく姿が目に入った。それは唐突に目の前に現れ、無明はそれを目印にして歩を速めた。 だんだんと近づいてくるその光の鳥は、無明の歩幅に合わせるようにゆっくりと羽を上下させ、少しすると顔のすぐ横を飛んでいた。そして急に目の前に飛び出て来て大きく翼を広げたかと思えば、小鳥のような大きさから孔雀のような大きな光の鳥へと姿を変えた。 無明は思わず足を止める。『さあ、私について来て』 鳥が羽ばたくと、光の羽根が数枚舞った。暗闇の中で唯一そこに存在している光は、大きな翼を広げて前へ前へと進んで行く。無明は足早にその光を追う。その光はだんだんと大きくなり、やがて真っ暗だった視界が真っ白に染まった。思わず瞼を閉じて立ち止まり、右腕を顔の前に翳してその光を遮る。 気付けば強い光は止みゆっくりと目を開けると、その先に広がっていたのはどこまでも広い空間だった。そこは青い空が果てしなく続く空間で、足元には踝くらいまでの水面が空と同じようにどこまでも広がっていた。 透明な水面に天井の空が反射して、上下に空があるのかと錯覚してしまう。幻想的な空間に、ぽつんと取り残されたかのように無明は立っていた。「ここは······、」「ここは契約の間。神子の記憶が交差する場所」 その声に、思わず振り返る。 自分とまったく同じ声。「君、は······だれ?」 そこに立っていたのは、黒い衣を纏い、無明が少し前まで付けていたような仮面で顔を覆った白銀髪の少年だった。長いその白銀髪は膝の辺りまであり、老人の白髪とは違い艶やかで美しい絹糸のようだった。「私は、始まりの神子」 仮面の奥の瞳は翡翠色をしていて、唇しかまともに見えないが、どこまでも穏や
夜が明け、日が出るまであと一刻ほどだろうか。氷楔の中はまだなんの変化もないようだ。この中で何が起きているかなど、知りようもないが、なんだか不安を覚える。(早く戻って来て······そして、あの時みたいに、笑いかけて欲しい) 無明が幼い頃、狼煙はずっと傍で見守っていた。無明が危険に晒されたり、ひとりではどうにもならないような時に、目の前に現れて直接助けていた。 その時は決まって、記憶に残らないように自分の事は頭の中から消して、けれども自分の中には、その時の出来事のすべてがしっかりと残っている。(同じ顔で、同じ瞳で、同じ言葉で、あなたはいつも俺を救ってくれる) この金眼を綺麗だと褒めてくれた。こんな、忌々しい瞳を。記憶などないのに、あのひとと同じ言葉を紡いでくれる。あのひとではない、あのひとと同じ存在。ふと、狼煙の瞳が伏せられる。どうしてもうひとりのあのひとは、ここにいないのだろう? きっと、誰よりもあのひとに逢いたいはず。(······あんたが生きていたら、良かったのに) ここにいたら、良かったのに。そうしたら、また、昔みたいに――――――。 そこまで考えて、狼煙は首を振る。そんなことは、考えても無駄だと。だって、あのひとは、目の前で死んだ。どんなに強くてもひとの身体は脆く、死んだらもうどうにもならない。ましてや、何百年も生き永らえる存在でもない。(なんでここにいるのが、よりにもよって、あの公子殿なんだ?) 無明の傍からほとんど離れず、必要以上に手を貸すその様子を、何度となく目にしてきた。その笑顔を、すべての表情を向けられても、ほとんど無反応なのが、特に気に入らない。 まるで。(あれ······? 俺、今、なんて言おうとした?) 神子の傍にいて、神子の言葉に頷くだけか、もしくはひと言ふた言しか返さない、つまらない男の姿がふと浮かんだ。 まるで、あのひと、のようだ。 狼煙は今更ながら、あの公子が無明を助けたあの日からの記憶を、辿る。あの時も、あの時も、あの時も。彼は、無明になんと言っていたか。なぜそうだと伝えないのか。伝えたところで本人に記憶がないから、といえば頷けなくもない。 じゃあどうして自分には教えてくれなかったのか。今の姿で最初に会ったのは三年くらい前だった。ひとりであの渓谷に現れ、彼は自分に向かってなんと言ったか。「私